藤田嗣治は国籍不明の印象を与える画家です

藤田嗣治という人物は国籍が不明の印象を与える画家です。1920年代のエコール・ド・パリの代表的な画家で、パリの新聞に藤田の名が掲載されない日はないほどであり、美術界ばかりではなく社交界でも人気を集め、明治以降の日本人芸術家で藤田ほど成功を海外で収めた人はおりません。
しかし、それほどの人気を博した藤田ですが、日本では不思議なほど芸術家としての知名度はありません。彼の足跡を辿ると、第二次世界大戦の戦争記録画の暗い歴史が彼の運命を大きく変えてしまったのは事実といえます。
藤田嗣治は1886年(明治19年)、東京府牛込区新小川町に生まれました。前年の明治18年に設けられた、内閣制度の元に初代総理大臣に任命された伊藤博文が、大日本帝国憲法の制定や国会開設に向けての準備を進め、まさに日本という国家のかたちが整えられようとしていた時代でした。
父嗣章は、文豪森鴎外の次の軍医総監を務めた陸軍の軍医で、兄弟は兄・二人の姉の四人兄弟の末っ子でした。藤田の家庭は、家父長制から距離をおいた自由な雰囲気に溢れており、それは父が海外経験が豊富だったためで、子どもの個性を尊重し、のびのびと育てようとしていました。
5歳の時父の転任に伴い、熊本市池田町に転居になります。この年に母まさが亡くなり心に大きな傷を残します。藤田が通った現在の熊本大学付属小学校で、早くもいたずらで奇怪な行動をとるようになります。後の女性遍歴を繰り返し、5度の結婚を経験しますがこの幼少の経験が根付いていると思われます。
藤田が芸術家になる夢を抱き始める夢を持つのは、東京に戻り小学校6年のころです。後の対談で「12・3歳には画家として生きる決心をした」と語っています。
1900年、御茶ノ水にある高等市販付属中学に進学します。この時、大きな自信となる出来事がありました。この年にパリで開催された万国博覧会に藤田嗣治の水彩画が日本の中学生の代表作品として出展されたのです。世界の檜舞台に絵が出展されたことでいよいよ気持ちが固まり、中学二年、14歳の時ついに父に思いを打ち明けます。
しかし、この打ち明け方がいかにも藤田らしい行動にでます。父は藤田を医者にしたいと考え常にそのように話していたので軋轢が予想されました。そこで藤田は奇策にでます。同じ家に住みながら父に手紙を書き、封筒に入れ切手を貼り街角のポストに入れたのです。
父は、一言もいわずに当時大金である50円を藤田に渡し、画の材料を買いなさいと運命を託したのです。